いじめは「そのように行動している人が多いからそうする」という均衡のなかにある
みかこです。
心友のことを書いた記事(私とあなた、間に音楽 - まるぽて)に、いじめられて不登校になったときの思い出も少しだけ書きましたが、いじめというのはどういう状況で起こるのだろうかということについて、色々考えたりたまに本を読んだりしています。
いじめに加担していた子たちが、全員凶悪な人たちなのかというと、当然ながら、NOです。
「こんなことをしてしまっていいのだろうか」という顔をしながら私を避けていた人たちがいました。私はその人たちに「そういう顔をしながらもなぜそうするのか?」という目を向けつつも、何というか「仕方のなさ」も同時に感じました。だいぶ後から振り返ってみたときには「たまたま自分がターゲットになりやすい条件が揃ってそうなったのかもしれない」とも思えました。
私が転校したあと、いじめはなくなったのかというと、NOです。
ターゲットが変わっただけでした。
というか、私のことを「無視しよう」と周りに話していた子が今度はターゲットになりました。そうすることをクラスのみんなが選んだのです。
「あいつがいじめたからみかこちゃんが転校することになったのだ」
「あいつは悪いやつだから制裁を加えてもいいのだ」
そういうロジックだったんだと思いますが、だからっていじめていいのかというと、私は違うと思います。私が出て行ってしまったということは、何人かの人にとって悲しい出来事だったのかもしれないけど、そこでなんとか「学校来ようよ」と言う子を頼りに登校しても良かったわけです。出て行った私が悪いわけでもないんだけど、その子がいじめられてもいい理由にもならない。
どうしていじめるのか?
それは、「そうしている人が多いから」という、バランスの問題なのだと書いている人がいました。
「加担しなければ自分がターゲットになるかもしれない」という不安から「止められない」=「やめようよ」と言えない。
それでは、何人「やめようよ」という人がいたらそれをやめるのか?
このバランス感覚がクラスの成員のそれぞれにあり、その数(感覚的なものでしかないのですが)を判断材料にして行動を選択しているということです。
「頻度依存行動」という言葉で表現されるこの振る舞いは、「赤信号 みんなで渡れば怖くない」というような、みんなでダメなことをしていれば、そのようにしてしまえという、無遠慮・非道な振る舞いをすることにもつながっています。
「集団としての意見に、個人としては必ずしも同意しているわけではないが、それに反対したときに受ける社会的制裁を恐れて、反対できないでいる」という構造がある。それを無視して、「いじめている子どもたちの心に問題がある」「いじめている子どもたちのストレスの原因は何なのか」ということばかり論じても、解決に繋がらないかもしれません。
他の国にもいじめはあるようです。
ですが、「いじめをなくす方法をみんなで考える」という時間が設けられている国もあります。日本は、周りの大人ですらその話題に触れないようにしている印象がありますが(「いじめの存在については把握していない」など)、「頻度依存行動」の視点で考えるならば、みんなで話し合うことで「やめたい人」同士が認識し合い、協力できるきっかけになるかもしれません。