まるぽて

みかこのなんでも書くブログ

上杉春雄−医師兼ピアニスト

みかこです。

 

夢中になるのはなぜかピアニストばかりです。

 

上杉春雄先生は、医師兼ピアニスト。

2014年12月、上杉先生の演奏会を聴きに行きました。

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「『バッハはカラフルなんです!』って僕が言ったのをカタチにしたら、こうなったらしいよ」と、チラシその他のデザインの話を聞いたのは、先生がある病院にお勤めされていたときでした。

わたしは治験コーディネーターとしてお仕事をしていて、上杉先生にも治験にご協力いただきました。

 

上杉先生は、20代のはじめ、CDをリリースし、サントリーホールで華々しいデビューを果たした後、医学の道に専念するため、すぐにピアニストを休業してしまいます。

 

医師としてキャリアを積んだ先生は、ある日、病院のピアノを弾いていました。

そのときたまたまピアノを聴いていた、パーキンソン病患者さんがいました。

その患者さんから、涙ながらに言われた言葉がきっかけで、先生は、ピアニストとして再び演奏活動を始めることにします。

 

「この数年間、病気のことで頭が一杯でしたが、

 先生のピアノを聴いたこの30分間だけは

 病気のことを忘れることができました。

 ありがとうございます」


 (AERA dot.より引用 https://dot.asahi.com/dot/2015012600102.html?page=1

 

  

上杉先生の演奏するバッハは、本当に色彩豊かで、いきいきとしていました。

 

それまでわたしは、バッハのことを「頭とこころを整理してくれるような、整った音楽を書く人」と思っていましたが、先生の演奏を聴いて、「見たことがなかった、でもとてもその人(バッハ)らしい顔」を見たような気がしました。

 

バッハの作品では「整っている」ことを大切にした演奏と、それを期待して聴くことが多い気がしていたのですが、それではもったいないような気持ちになったんですね。

 

バッハ作曲の「ゴールドベルク変奏曲」。

ゴールドベルク(バッハの弟子)が、不眠に悩むカイザーリンク伯爵に「眠るための音楽を」と言われ、この曲を演奏したという話が残っています。

この曲では、アリアが初めと終わりに配されていて、これらのアリアには、夢と現実世界の行き来を表現しているような響きがあり、伯爵の希望は叶えられたのではないでしょうか。

 

わたしたちが眠りのなかで見る夢では、場面がとりとめもなく、めまぐるしく変わっていくことがあります。

そんな夢のなかにいるように、各変奏ごとにイメージされるものは異なり、静かな森の緑、薄曇りのブルーグレー、元気いっぱいのオレンジ…様々な色や温度を持つ音が、先生の指先から紡ぎ出されていきました。

それでいて、いのちへの慈しみが、すべての縦糸として織り込まれているような。

「変奏」という、「ひとつからすべてを」つくりだす曲の構成が、「カラフルだけれど、まとまりをもって心に留まる」という不思議な感覚を残してくれます。

夢もちょうど、そういうものかもしれません。

 

「僕のバッハの研究は、正しい方向に進んでいると思う」

 

そうおっしゃる上杉先生は、バッハを、立体的に表情豊かにいきいきと演奏して、「いまここにある芸術」として蘇らせていました。

 

素晴らしいゴールドベルクのあと、アンコールは「主よ人の望みよよろこびよ」。

 

神の子を授かったマリアが、その従姉妹エリサベツを訪ねたことを記念した「母マリア訪問の祝日」というのがあります。

「主よ人の望みよよろこびよ」は、この祝日のためにバッハによって書かれたカンタータ「心と口と行いと生活で」の中の1曲です。

 

マリアと会ったエリサベツも、そのときちょうど、子ども(後に洗礼者ヨハネとなる)を身ごもっていました。

神への従順を誓う二人の婦人、これから母となるふたりの女性の、清々しくあたたかいこころの遣り取りが描かれています。

その光景をイメージするのを妨げない、あたたかな演奏でした。

 

 

上杉先生のアルバムのなかでは、「トロイメライ」が好きです。

美しいもの、遊びごころのあるもの、いろんな演奏がある。

 

眠りのなかの「夢」の世界と、現実の世界を行き来しながら、わたしたちの毎日は過ぎてゆきます。

 

ほんとうのところ、わたしたちが生きているのは、どちらの世界なのだろう。

夢の世界からあふれて、こぼれおちてきたものを、誰かがあつめてくれたのかもしれない。

芸術というのにふれていると、そのように思うことがあります。

 

作曲家という人たちは、夢のかけらをあつめる仕事をしているのかもしれない。

演奏家は、それを、かたちにしているのかもしれない。

かたちになったものが、夢とこちらの世界とをつなげてくれたとき、わたしたちのこころがふるえて、涙があふれるのかもしれない。

 

また聴きにいきたいな。