まるぽて

みかこのなんでも書くブログ

妖怪シッパイイヤダ

みかこです。

 

よく失敗します。

 

自由な仕事を始めて以降、福祉事業所の障害者の方も含めていろんな人と話してきましたが、よく聞くのが「失敗したくないんです」「失敗したことがなくて」というものです。

 

それって「ありえないこと」なので、「いろいろ失敗してきたよね?」と言いたくなるのですが、そういう人たちの中では、「なかったこと」になっていたり、今の状態は「失敗」ではなくて「一つの選択」ということになっていたりするようです。

 

なんでもない部分については「あ、失敗した」と言うんだけれど、もうちょっと大きなコトになってくると、「失敗していない」になる。

 

音楽で例えると、もう元の曲がなんだかわからないくらいに大幅な編曲をしながら演奏しているのに「正確に弾いています」と言っているような感じで、出来上がるもの、周りに聴こえているものは、全然別の曲っていう感じです。

 

周りの人にとってはそれでもいいですよね。

その人の曲、その人の演奏だもんで、そういう曲なんだぁ、と思うだけなので。

 

やりたかったことと違う状況になっていることについて、本当は「いやだ」と思っているのに、それを認めたくなくて、「平気」「これでいい」としていると、そのうち「何がしたいのかわからない」とか、「わからないから何もしない」になっていったり、本当は嫌な仕事をそのまま「これが自分には向いているんです」と続けたりすることになるのではないでしょうか。

 

 

好きな人ができても、「好きじゃない」ことにするとか。

好きな分野で作品をいくつも作っているのに、世に出さないとか。

どんなにやっても(いまのままでは)届かないという現実に直面したくなくて、力を出し切らないとか、そもそも手をつけないとか。

 

それは、いったい「誰」の人生を生きているのかなってわたしは思うんです。

 

それから、誰かに愛されるためとか、誰かに嫌われないためとか、死んじゃった誰かの分までとかいうことって、本当にはできないんじゃないかと。 

わたしたちは、ひとり分の人生を生きるのにちょうどいいくらいの力しか与えられてないんじゃないかなと思うのです。

それが、ちがうところにパワーを使ったぶん、自分の人生を曲げることになったり、欠けたりしてしまう気がするんです。

 

曲がってもいいやと思えるひとは、それでいいと思います。

ただわたしはそんなに器用でもなく、有り余るチカラもないから、そういうことをしようとしていた時は、とても疲れました。

 

「まちがえた!」「できなかった!」と認めた上で、その結果から、プラスの意味を探すことは、本来の道へ戻る、本来の道を進むための力になると思います。

 

「まちがってない」「これが想定どおり」とごまかすと、本来の道には二度と戻れなくなるかもしれない。

 

「失敗してない」「失敗したくない」人の背中には「妖怪シッパイイヤダ」がついていて、思っていたのと違うところへ導かれてしまったり、そこから動けなくなってしまうのじゃないだろうか。

 

わたしも気がついていないだけで、たまにくっついてたりするのかもしれないなぁ。

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