震災の記憶
みかこです。
震災の日。
南三陸町にいた知り合いの人はしばらく消息不明だったけれども、助かったことがわかり、今も元気にコントラバスを弾いているんじゃないかなぁ。
岩手に実習に行っていた大学生も助かっていて、今はどこかで学校の先生をやっているんじゃないかなぁ。
被災しても、今も元気な人もいれば、あの日に亡くなってしまった人もいる。
あの日じゃないけど、事故や急病で亡くなってしまった人もいる。
震災の日、わたしは池袋のジュンク堂近くのビルで仕事をしていた。
地震かな、と思ったらやたら長かった。
ビルの免震構造のおかげで不思議な横スライド感があり、周りと顔を見合わせながら「これやばいんじゃない?」「とりあえず机の下に隠れようか・・」などと冷静にコメントしてしまった記憶がある。
向かいに座っている同僚はお客さんと電話中だった。
お客さんが電話を切ろうと提案したようで電話を切った。
周りにいた契約社員女子の中には、怖くて泣き出してしまう人もいた。
とにかく長かった。
揺れがおさまって、先ほど電話をしていた同僚が上司に「今の電話なんですけど〜」と報告に行くと「いやそれどころじゃないでしょ」と言われ、みんな苦笑していた。
かなりまずいことなんじゃないかと、それぞれがいろんなソースから情報を探ったり、休憩室にあったテレビでニュースを見たりして、報告しあっていた。
仕事が終わったら、新日本フィルの定期演奏会を聴きに行くつもりだったけど、それどころじゃないのかも?
電車が動いてないみたい。
中止かな?と思って行く努力をしなかったけれども、中止にならなかったのを後日知った。
テレビでは、東北がとんでもないことになったらしい映像が、何度も流れるようになった。
とにかく大変なことのような気がするけど、家にも帰れなさそうなので、会社に泊まるか、ということになった。
近くのコンビニに晩御飯を買いに行ったら、ほとんど何も残っていなかった。
かろうじて残っていたものやペットボトルの水をいくつか買った。
日付が変わるくらいの頃、電車が動き出した。
とりあえず乗って帰った。
次の日からは、通勤経路の電車が動いていて出社できる人はするように、ということだった。
わたしの通勤経路は、うちの最寄り駅までは動いていて、そこから先は動いてなかった。
最寄り駅は、人が溢れるような駅ではなかったんだけど、隣の駅や隣の隣くらいから「なんとかして出社・登校したい」人たちが集まってきてしまい、駅のホームが溢れるどころか、駅の外まで列を作っていた。
正直なところ、
(この非常時に、こんなにしてまで出社する意味あるのかなぁ・・・)
と思った。
会社に行ってもあんまりやれることってなかった。
当時、とても気に入ってくれていたクライアントさんは、わたしの無事をとても喜んでくださったけれども、あちらも通常業務とはいかないようだった。
略奪行為が起きないのは素晴らしいことだと思うけど、仕事や学校のことに非常時に融通がきかないというのは、何だかとても奇妙なことのような気がした。
非常時に、経営者と自分の考えが合わないとき、従業員はとてもストレスになると思う。
「どうしても」と思う人だけ出社するように従業員が選ぶことってできないもんかなぁ。。。
その後も大きな余震が続いていて、結構長い間、あまりよく眠れなかった。
毎日、非常食みたいなものと帰宅マップを持ち歩いた。
震災時帰宅マップは会社のそばにジュンク堂があったからすぐ買った。
契約社員の中には、マップを頼りに浦安の方まで歩いて帰ったというツワモノがいた。
京葉線方面は地盤沈下やいろんなことがあって、本当に無事に帰れてよかったなと思った。
被災者を気遣うラジオ番組などを聴きながら、わたしはわたしの喪の作業をしていた。
妹が生命の危機にある状態だとわかったときは、ご飯が食べられなくなったが、他界した後は回復した。
震災のショックや不安はあまり食に影響を与えなかった。
思い返すと、恋人と別れたときも、ご飯が食べられなくなったことがあった。
可能性がわずかに残っていたりして、受け入れたくないものが目の前にあるとき、ご飯が食べられなくなる。
可能性がゼロになって受け入れないとならないとわかったとき、立ち直ろうと普通の生活を守るようになる。
そういうパターンが自分にあるのがわかった。
わたしが行けなかった新日本フィルの公演は、「3.11のマーラー」としてドキュメンタリー番組も放映された。
ハーディングは6月の振替公演で、自ら募金箱を持ってロビーに立っていた。
わたしは彼が大好きになった。
新日本フィルもいっそう応援したくなった。
震災の日に思い起こしたいこと。
少しの備え、少しの考え方の違いが、生死を分けることがあること。
自分の命に責任を持つこと。
自分の次は、周りの人の命を守るように動けるか、考えてみること。