怪我と風邪 いまあるものに感謝
みかこです。
久しぶりに発熱。
38度超はいつ以来かな?
昔、いとうゆうの「39℃ショック」って少女漫画があったなぁ。
体調管理も仕事のうち、と言うのが当たり前みたいになってますけど、みんな病気になりたくてなってるわけじゃないので、そんな言葉で自分をいじめないようにしてください。
年末に、凍った道の上で横向きに勢いよく転倒しまして、左腕を強打しまして。
その部分が、土曜の弦楽オケの練習中、思い出したように腫れて痛み出しました。
楽器弾いたからかと思ってましたが、ウイルスに感染してて、これから熱出ますよーというお知らせだったのかなー。
仕事に行ったらいいことあったし、練習に行ったら心友や仲間に会えて気持ちは元気になったし、弾いてみたらヤナーチェクも面白かった。
やっぱり音楽はいいね。
さて、左腕痛いと、洗濯物干すのもたたむのも痛いです。
料理でなにか刻むとき押さえたりフライパン持ち上げたりするのも痛い。
左腕って、楽器やキーボード打つ以外のことではあまり使っていないような気がしてたけど、無意識にけっこう使ってたんだねー、と思いました。
夫が鍋焼きうどんをつくってくれました。
栄養ドリンクも買ってきてくれたり、年賀状出してきてくれたり、あれこれしてくれてます。わたしの夫は、こういうときだけじゃなくて、ふだんから結構やってくれます。
ほんとにありがたいなぁと思います。
わたしの場合は夫がそういうことをしてくれているけど、「夫」というのじゃなくても、「友人」でも「きょうだい」でも「親」でも「子ども」でも、そういうふうにいざというときに支えてくれる人がいるのって、幸せなことですよね。
わたしはずっと「安全で安心できるおうち」が欲しかったのですが、夫と結婚して、ようやくそういうおうちを得られました。
それから、波はあるものの、人生が少しずつ、明るいほうに変わってきた気がしています。育て直してもらったという感じ。
千葉の方でW成人式というのがあったけど、夫と出会ったのが二十歳くらいだったから、わたしはやっと二十歳くらいなのかもしれない。
病気や怪我をすると、夫がいてくれることのありがたみをいっそう感じます。
昔は、わたしはこれができない、あれもできない、できるようにならなきゃ、と必死だったような気がします。
でも、それずっとやってたら、色々できていることがあるのに、「わたしは何もできない」と思うようになり、だんだんと、実際に、何もできなくなっていきました。
朝起きて、朝食の準備、コーヒーメーカーでコーヒーを淹れることもできない。パンも焼けない。まずいなあと思いながらも身体は思うように動かない。
色々学んだいま、振り返ってみると、「何もできない」という暗示にかかって、動かないと思い込んでいるというのと、動きたくない、それ(の後に待っている「仕事」)をやりたくない、というのが、言えないというのもあったような気がします。
「何もできないのに生きている価値ってあるのかなあ」
と夫に言ったら、
「貴族っているでしょ。あの人たちって着替えとかまで人にやってもらったりするんだよ。それでも生きてるでしょ。だからいいんだよ」
と言いました。
わたしは貴族じゃないけど、夫はそんなわたしでも良いのだと、元気な方がいいけど、それでもみかこはみかこだと扱ってくれていました。
ふつうの発達段階で考えたときに、その年齢の人間に対してすることではないのかもしれないけど、わたしにはそういう経験が乏しかったから、それを知ることが必要だったんじゃないかなとも思います。
いまは、そういう「足りない病」をやめて、加点方式で考えるようになりました。
人の能力というのも、細胞がふえていくように、積み上がって形になっていくものだと思ってます。
そのイメージを持ったのは、不妊治療の顕微授精を受けるための説明会で、受精から胚ができていくまでのビデオを観たときです。
細胞がどんどんふえて大きくなっていく様子。
人の身体がこのようにできていくのであれば、心のことや、能力のことも、こういうイメージで捉えるのが相応しいのではないか、と思いました。
「どこかが欠けてるのを補う」んじゃなくて、与えられたり、成し遂げたりして、資源が積み上がって、理想の形に向かって伸びていき、いらなくなったところは削ぎ落としていくというイメージです。
そういうイメージのもとで、すでにあるものをあらためて見ていくと、ありがたいなーと、元気が出ます。
動けないときは、何もできないぶん、そういうものをゆっくり思い返せて、感謝の気持ちが大きくなる時間だなぁと思います。