まるぽて

みかこのなんでも書くブログ

安全なところで暴れようとは思わない

みかこです。

 

タイマー3分って言ったのに鳴らなかった気がするよ、Siri?

 

高校で、学校の先生への怒りと不信感で不登校になり、その怒りがおさまった頃、何があっても動じない、何に関しても赦しの心を持っているような、仏のような人間になっていた期間がありました。解脱?

そうなれていたのは、ある意味、自分の特性によるものかとも思いますが、「安全な場所にいた」ということの効果も大きく、復学して、また「社会」に呑まれると、仏はどこかへ去りました。

 

自分としては、いつも、いろんな人と仲良くしたいと願い、努力をしているのですが、いつもいつも、その努力をしている間に、仕返しされないのをいいことに何かやらかす人が出てきて、そういう人になめられ続けているのもなんだかなぁと思い始めるタイミングが訪れ、結局は、そういう周りの「数で勝ってる」「立場で勝ってる」っていうところで、行き過ぎているのに気付きながらもやめない「愛のない対応」の結果として、私の中の仏が旅に出るみたいです。

そういう経験が人生においてあまりにも重なると、無差別殺人とか起こすこともあるんじゃないかなぁ・・・ということが、0.0001ミリくらいは理解できなくもない気持ちです。

 

発達障害と少年犯罪」を読み始めましたが、ホラーもスプラッタもアクション映画も嫌いで、血生臭い事件の詳細を知りたいと思わないタイプの私は、世の中を驚かせてしまうような事件を起こした彼らが「障害者」と診断されるような特性を持っていたという事実を、今になって知りました。

最近、新幹線内での無差別死傷事件があって、容疑者が「自閉症ASD)」と診断を受けていたことを書いた記事が流れ、それを機に「障害者と犯罪」について、いろんな人がそれぞれの主張したいことを、事件を利用して述べているだけのような気もしなくもない状況になっていますが、私としては、結局は、誰かからの「暴力」が、また別の人に流れていってしまっている図式(障害があるのないのは関係なく)なんだなと、犯人をただの異常者として片付けてる場合じゃないんじゃないかと、思っています。別の、虐待死のこともそうかもしれないけど。

「特別変な人の行状」っていうことで片付ければ安心できる(そういう事件は極めてレアだという認識になる)ものだから、実は、環境・社会というものによって引き起こされたものであったにも関わらず、「人の特性」のせいにしてしまい、そういった「まずい」環境・社会が存在し続け、繰り返し同じような悲惨な事件が起きているんじゃないのか、という意見に、私は一票入れたいです。

 

私たち人間は、自分が触れている情報に偏りがあるという認識が薄く、報道の回数、事件のインパクトの強さでもって、「そういうケースが多い」と認識しがちなものだから、警察や専門家は実際のデータと同じような感覚を持っているのに対して、一般人は、「たくさん報道されているもの」が「多いもの」、「衝撃的なもの」が「多いもの」と認識しがちです。

そういう背景があるもので、「容疑者が障害者だって報道するのはやめてほしい」と主張する人たちがいるんですね。障害者が事件を起こしている割合は実際のところ多くないんですけど、報道されることによって事件が特別目立ち、障害者は危険だ、というような印象を与え、さらに知識のない方々が「そういえば自分もこんな経験がある」という余計な話をくっつけて、その印象がさも正しいかのようにネットで主張し始め、障害者に対して言葉の暴力をふるう輩が増殖するんですね。そして何も考えずそれを「そうかもなぁ」と同意する人が増してゆく。面倒くさいです。まずデータ見ろ。

 

アメリカの学生による銃乱射事件もなんども起きてるけど、容疑者は大抵いじめられたり疎外された経験があるそうです。なんか遣る瀬無い。

冷静な人間がそういうニュースに触れると「そうは言っても無差別だろ。やってきた奴に仕返しするならともかく、関係ない人も巻き添えにするのは違うんじゃないか?」と思うと思うんですけど、既に「それだけの事件を起こしても良い」という思考回路になってしまっているので、そういう判断はもはやできないんじゃないでしょうか。

 

さて、先日「発達障害特別支援教育」というタイトルの授業を受けたんですけれども、その中に出てくるASDのかたのつぶやきが、まるで自分の心の声のようで、授業受けながら繰り返し涙が出てきたりしました。そういう(自分のことじゃないのに自分のことのように思う)あたり、私はASDとは違うんじゃないか?と思わなくもないんだけれども、ASDかどうかは置いといて、似たような「苦しみ」を味わってきてるわけです。

その似たような苦しみっていうのは、これまで出会った人たちには、私のことを「いじめる人」と、「援助したい人」といて、それらは、真逆のようでいて、実際のところ、私にとっては「同類」だ、ということです。

どういう意味で同類なのかというと、どちらも「私の気持ち」を置き去りにして、自分のやりたいことをやり、気が済んでどこかへ行く、ということをしているという意味で以って、同類なんです。むしろ後者の方がタチが悪いんじゃないでしょうか。

こちらはそれ(的外れな援助、というか、的外れな時点で、援助じゃなくて攻撃)によってもうじゅうぶん傷ついているのに、「人の善意、好意を無碍にするもんじゃない」「人と人としての付き合いを大切にしろ」「人の絆が大切だろ」とかいう、妙な他人からの圧力があったりで、こちらがそれ(さらなる攻撃)に抵抗を示そうものなら、「人の気持ちがわからないお前がおかしい」とかいう話になる。そんな輩こそ、こっちの気持ち微塵もわかってないよな?脳みそ空っぽなんじゃねえの?ばか嫌い。と心の中で叫びつつ、諦めてもいる。

もうそんな輩はね、要らないんですよ。そういう輩が、実際のところ何もわからないくせに、トラウマだか、育ちの悪さだか、メサイアコンプレックスみたいなのがあるんだか知らないが、フクシとかイリョウとかキョウイクに居たりして、「支援」のつもりでなんかもう、めちゃくちゃなことをする。それで、当事者のことわかんない同じような輩たちに「大変さアピール」「自分の意識高いアピール」をして、同じような輩たちから「フクシやイリョウやキョウイクという聖域でガンバッテル」っていう部分でちやほやされて勘違いしてたりして、もうそういう輩全員

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聖おにいさん」のイエスの父(神)

 

はい、自分の気持ちが入ってきちゃって若干言葉がえげつなくなりすみません。

 

で以って、「分かり合えない」ことについて「自分の読解力や文章能力がなくて」とかなんかスキルのせいにする人に対して、今の私の心の中には「それじゃあしょうがないね」と言える仏がいないです。「だったら出直してこい」しか言えないです。

ハードも違えば、スタンスも違うから、コミュニケーション不全が起きる。

本当に、努力でどうにかなる部分の読解力とか文章能力が問題なら、どうにかしてから来ればいいですよね?

スキル云々じゃなくて、スタンスを変えることが必要なんじゃないでしょうか。

もし相手が自分と同類ではないのだとしたら、「自分には到底この人の頭や心の中はわからないのだけれども、それでもカケラでもいいから教えて欲しい」というスタンスになれば、自分の発する言葉も変わるだろうし、相手だってひどく抵抗を示したりしないと思うのです。

同類であれば、そんな問題はほぼ起こらない。寡ない言葉でも、十分お互いに理解できる。そういうことがあります。

 

そして、明らかに自分の手に負えないタイプの人とは関わらないのが鉄則だと思うのです。

いくら経験積みたくても、いくら人を助けたい思いがあっても、自分がほぼどうしようもない相手について、自分の力量ではどうにもできないことがわかっているのにそれでも関わろうとするのって、一体誰のためなんだろうか?自分のためでしかないんじゃないか?その先には何が待っているかって、お互いにボロボロになるっていう最悪のことなんじゃないか?と私は思っています。

 

過去に自己愛性パーソナリティ障害と思しき人を好きになってしまったことがあって、ラブラブの頃はまだしも、別れに向かう局面では暴言を吐かれまくったりもしたけれども、それも、私が手に負えないのに、相手の傷に触ってしまったからなんじゃないかと思います。

自分もぼろぼろになったけれども、諸々学んだ今は、なんとなくその彼の状況が理解できなくもない。彼らはただひたすら自分を守りたいだけだったんだけれども、その表現がモラハラだったというだけのこと。

知らなかったとは言え、傷だらけになって癒されないまままだそこにあり、誰にも触れられたくないような部分、というのに踏み込んでしまった、こちらがいけないのじゃないだろうか。そして今の時点ではまだ彼らに適切に対応できるほどの実力も知識もない気がしています。

 

人が暴れる背景には、その人にとっての、窮地というか、危機的状況がそこにあるんだと思います。それは小さな子どもでも大人でも。

そんなときには、その暴れた人の気持ちを、こちらから何も押し付けずに、とにかく聴いてみるしかないんじゃないでしょうか。そして落ち着いたときに、もしまだ話す余地があるのだったら、理解したことを伝えてみて、それが合っていたら、そこでようやく対等になるわけで、話はそれからだ、ということなんじゃないでしょうか。

 

今日は施設の子どもが久々に「抵抗を示し」、気持ちを聴き取るのにとても時間がかかりましたが、最後には、その子なりに整理ができて、自分自身の適切でない行動についても謝ることができました。やっと安全だと思ってくれたんだなぁ、というところで、疲れはしましたが、こちらも少しほっとしたところがあります。

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くみとるのに必死です

 

そもそものところ、その人にできない課題を与えておいて、できないことを責めるのはおかしいっていうことがあり、そういうことの積み重ねで以って、攻撃性が高まってしまうのであれば、暴れた人を責める前に、自分たちが何かおかしいことをしていなかったか、振り返ってみたりしてもいいんじゃないでしょうか。

 

安心・安全を感じられる環境・社会がもしそこにあったなら、件の如し凶行は、行われなかったのではないでしょうか。