老少不定
みかこです。
お通夜でした。
「亡くなった」ということをきいたときは受け止められたつもりであっても、実際に棺の中の顔を見たときには全然違う気持ちがこみ上げてくるものです。そういう経験をわたしはそれなりにしてきたなぁ、という自覚もあって、大きな動揺もなく、でもほんとうにもう話せないんだなぁと思って寂しくなりました。それから、これまで棺の中に見てきた、見送ってきたいろんな方の顔を思い返していました。
お坊さんの法話は、白骨抄からの「老少不定」ということばについて。
生まれた順に死ぬわけではない、死ぬタイミングは誰にもコントロールできないし、誰が先かもわからない。ただ、誰しも、自分自身のことはなぜか、誰よりもあと、今日も明日もいつまでも生きるものだと思っているが、それは誤りである。
仏教とか法話とかそういうこと抜きに考えても、それは事実。
なんとなく、夫の脱いだスリッパに足を入れてみたとき、心臓マッサージをやめたばかりの妹の足がまだあたたかかったことを思い出しました。
そのあたたかさは、「そこに今さっきまで誰かがいた」というのを教えてくれるけれども、その人はもうそこにはいない、というあたたかさ。
彼女はもうそこにいないもんで、わたしは何に手を合わせるのやら、と思い、焼香台が回ってきたけど、ぱらぱらと香を焼いてみて、その煙をしばし見つめて、隣に回しました。
帰り際にも、お参りするのはなんかちがう気がして、しませんでした。
彼女は神さまを信じてから召されたんだけれど、彼女のお通夜には賛美歌も聖歌もなく、ちょっと音楽的なお経があるだけでした。
葬儀というのは、生きている人、残された人たちのためにあるものだとよく言いますが、それもそうだなぁと思ったり、もしかしたら、彼女があれほどゴスペルを歌いながらも死の間際まで信仰を表すことができなかったのは、死後に別れることになるかもしれない家族のことが気になっていたのかなと想像したりもしました。
死んだあとどこに行くのか、誰にも本当のことはわからないにしても、もしその世界があるのだとしたら、わたしは天国に行くらしいけど、わたしの大事な人たちは別のところへ行くことになるんだろうか。
こんなに大事な家族なのに、別のところへ行くことになるんだろうか。
配偶者に信仰を持って欲しいと思っても、配偶者はその親とちがうところへ行くことになるのだとしたら、それを強いることにならないか。
わたしにも昔そういう葛藤があったなぁというのも思い出しました。
気丈に振舞っていらっしゃるご主人の顔を見ながら、妹が死んだときにすっかり動揺して混乱している親の代わりになんとかせねばとがんばっていた自分も、こういう感じだったような気がしました。
元気でいてほしい、また会いたいなぁと思って、そのように伝えました。
人生100年の時代というところですが、その半分で彼女は召されました。
わたしの妹は3分の1もなかった。
いっぽうで、100歳学生もいる。
いろんな生がある。
明日はどんな1日にしたいかなぁ。
生かされている今を、どう生きましょうか。