楽器と弾く人
みかこです。
昨日書いた「気に入らない楽器」の話。
「気に入らない楽器」はその後、20年近い長い年月のあいだ、部屋の隅でオブジェになっていました。
「気に入らない楽器」がオブジェになっている間、わたしは暗黒っていました。
何度も何度も挫折をして、「もうこんな人間はいなくなった方がいいんじゃないか」と思っていた10代〜20代。
バブル期を謳歌した元上司に「生きてるだけでみんなにチヤホヤされて、アッシー君メッシー君のいた、花の20代の話をして〜!」と言われても、はたいても何も出てこない。。。
そんな時期のわたしを、「気に入らない楽器」は、部屋の隅で見守っていてくれました。
社会人になって「またオーケストラでコントラバスをやりたい」と思い、今の楽器を買うことになった時に、わたしは「気に入らない楽器」を手放しました。
その後数年経ち、当時の会社の後輩が「コントラバスをやりたい」と言い出したので、その後輩を連れて弦楽器工房高崎に行きました。
すると、手放した「気に入らない楽器」にそっくりな楽器が、誰かから売られて、そこにあったのです。
わたしが「誤って深く傷つけてしまった」所に、同じ傷がありました。
「わたしのあの楽器かもしれない」と思いました。
その「気に入らない楽器かもしれない楽器」は、指板がやたら削ってあって、ボディにもこすったような細かい傷がたくさんついていました。
「どんな使われ方をしていたんだろう・・・」
と、わたしはなんだか自分の大切な人がめちゃくちゃにされたような「ベルセルク」のガッツのような気持ち、自分が何十年も放置している間におばあさんになってしまった恋人ソルヴェイグに再会したときのペール・ギュントのような気持ちになって、自分も全然大事にしてなかったくせに、心がなんだかとても傷ついたのです。
その「気に入らない楽器かもしれない楽器」はどうなったかというと、連れて行った後輩が買いました。
でもその後、わたしは札幌へ越して、後輩も会社を辞めたそうで、「気に入らない楽器かもしれない楽器」のその後はわからなくなりました。
今、ある人にチェロを借りていますが、その人も、当時のわたしと同じくらい長い間チェロをほったらかしていました。
ちょうど、知り合いのチェロ弾きに、楽器がなくて困っている人がいたので、「返しても今後弾くことがないようだったら、その人に貸してみて、気に入るようだったら買い取ってもらってもいいか」と持ち主にきくと、「弾いていなかったけれど、自分がつらい時期を一緒に過ごしたとても大事な楽器なので、それはなるべく避けてもらいたい」という主旨のお返事が来ました。
そうか。わたしもほったらかしていたし、売ってしまったけど、どうでもいいと思えなかったもんな。
わたし、そんな大事な楽器を貸してもらえているんだなぁ。
みかこ感激。
そんなわけでそのチェロは、上手に弾けるチェロ弾きの元へは渡らず、上手に弾けないわたしの家にあります。
「ただの道具」っていうものは果たしてあるんでしょうか。
「一緒に存在した」というだけで、モノにも、人が意味づけをして、愛することがあるのだとしたら、そこに物言わずただ横たわっている人がいたとして、横たわっている人を愛せるのかどうか、横たわっている人に価値を見出すのかどうかは、自分次第なんじゃないかと思っています。
楽器には、「音の響き」という反応がありますね。
自分の要求に応えてくれる感じ、なかなか簡単に行かない感じ、などなど。
弾けば弾くほど一層、人と楽器には関係ができていくのだと思います。
「楽器は特別なものだ」という人もいますが、それは楽器の反応(音の響き)に対して、さらに自分が反応している(悦び、感動、悲しい気持ち、不快感、その他諸々を引き出される)からなんじゃないかな。
わたしにとっては、楽器はなんだか人みたいです。人よりずっと長く生きるけれど。
わたしは、自分が少しでも関わった人のことは、なんだかいつまでも気になるのですが、楽器もそうです。
「気に入らない楽器」、わたしは大事にできなかったけど、どこかで誰かに可愛がってもらえているといいなー。と思っています。