「楡の家」(堀辰雄)のことば、本の読み方
みかこです。
本を読むのが好きです。
社会人になってからは、学生のころより一層本を買うようになり、並行読書というか積ん読だらけというか・・・それについて自分でダメ出しするのはやめました。
頭から読まず、図鑑みたいな読み方をしている本も結構あります。
必要なことだけ探す、みたいな。
(著者はいろいろ考えて書いているのもわかるのですが、自分がもし何か出版しても、そういう使い方でいいと思うし、このブログも、書くことが上手になりたいというのと、わたしのしてきたこと、考えたことが、部分的にでも、誰かの何かのきっかけになったり、背中を押すようなこともあるかな?と思って書いています。)
そういうわたしなので。
宮崎駿監督が、自分の作品を観て涙したという「風立ちぬ」を観ていたく感動したころは、即、堀越二郎と堀辰雄の本を買って読みました。
零戦という戦闘機ではあるものの、この人のものづくり、研究への情熱はすごいな!と、ちょっと、理系っぽい興奮があったり、肺病のヒロインが出てくるような、救いのなさの中に救いが見えてくるような文学に涙したりしました。
堀辰雄・著「楡の家」(新潮文庫)より、印象に残ったことば。
「おれの過ぎて来た跡には、
一すじ何かが残っているだろう。
それも他の風がくると
跡方もなく消されてしまうようなものかも知れない。
だが、その跡には又きっとおれに似たものが
おれのに似た跡を残していくにちがいない。
或(ある)運命がそうやって
一つのものから他のものへと
絶えず受け継がれるのだ。」
「文学」の世界の、こういうことばが、自分の生きかたを不意に肯定してくれたり、それまで知らなかった大切なやさしさに気づかせてくれたりします。
以前、本は、「正しいやり方を学ばねばならない」という読み方をしていて、そうしていると、本によって書いてあることが違って、混乱したり、腹が立ったりしました。
本に書いてある「オススメ書籍」を鵜呑みにして、全部読んでみたら、「オススメ書籍」同士で「オススメ」と書き合っているということに気がついたり、「信者」みたいになっている人をターゲットにしたビジネスがあるんだなぁと悲しくなったりもしました。
そんなのは、ふつうにあることで、ビジネスのやり方としてもよくあることなのですが。
人によって持っているもの、置かれている状況がぜんぜん違うので、同じことをやっても、うまく行ったり行かなかったりします。
世の中の何かについての方法に、たった一つの正解はないです。
今、うまく行ってるものも、すぐに「古く」なります。
誰かの教えを忠実に守ることについて、否定はしませんが、そういうのは参考程度にして、自分で考えることが大事だと思っています。
自分で考えないと、お金や時間をかけて結果が出なかった時に「騙された」「裏切られた」ってなるし、「こういう理解でいいんだろうか」と不安になったりするんじゃないのかな。
自分で思いついたことや、他の人の意見でも、自分で「これがこの状況には合うんじゃないか」と思ったことを試すのは、そういう余計な感情にとらわれなくてラクです。
このブログも例外ではなく、自分とちがう、当てはまらない、と思ったらそれでいいんですよーん。
「それはちがう」と思ったものがあったら、自分はどうちがうのか、考えてみると、自分の軸ができていくと思います。