まるぽて

みかこのなんでも書くブログ

川越守 北海道のいまの音楽をつくった人

みかこです。

 

わたしの大好きな人がひとり、召されました。

 

川越守(かわごえ・まもる)先生。

 

きのう、外で食事をしながらFacebookを見たら、ふだんほとんど発信しない人がポンとフィードのトップに出てきていて、先生の訃報を知りました。

先生の書いた曲を先生の指揮で演奏してみたいというのは、ついにかなわなかった。

きょうの北海道新聞にはもう記事が出ていたみたいです。 

 

これまで、川越先生の指揮で演奏したのは2回だけ。

いずれも、北海道交響楽団さんのエキストラとしての演奏です。

1回目は、ショスタコーヴィチの12番がメインの演奏会。モソロフの「鉄工場」もやりました。

2回目は、名寄のエンレイホールこけら落しの一環の、ベートーヴェンの第九。

レチタティーヴォ、ちょー速かったな。)

 

道響さんの練習に参加しつつ、先生についての昔話、伝説なんかをいろいろ聞いていて、ほんとに面白い人だなぁ、と思っていました。

最初はよくわからなかったけど、その振り方も、わかってくると、なんかいいんです。

 

川越先生はコントラバスをやってたみたいだ、というのをうっすら聞いていて、ホテルユキタの1階で楽器を置いて一息ついたりしてたら、先生が座っていて、会釈してくださったのが、なんだか記憶に残っています。

当時のわたしは「わたしなんか」のカタマリで、先生といろいろお話ししてみたいと思いながらも、声をかける勇気が出ませんでした。

 

わたしのきいた、川越先生の伝説の中でいちばん印象に残っているのは、「先生のチェロを聴いて感動のあまり泣いた人がいる」っていうやつです。

先生のチェロ、聴いてみたかった。

 

 

川越先生が楽器というものを始めたのは、高校2年の時。

家にヴァイオリンがあったから、それを持って高校のオーケストラに参加したら楽しくて楽しくて、がむしゃらにやっていたそう。

(高校からですよ。小さい頃からやってなかったからって遠慮しないで、どんどん上手くなったらいいと思います。) 

高校3年生のとき、NHKの札幌放送管弦楽団で、コントラバスをやる人がいないかというので、音楽の勉強のためにコントラバスをやるようになった。

音楽が好きすぎて、ほかの勉強は放り出し気味だったようで、浪人して、その間も音楽をひたすらやっていた。ダンスバンドやジャズバンドもやっていた。

北大(教育学部音楽専攻科、現在は教育大へ移管)に受かってから、北大交響楽団に入り、団を立て直しつつ、さらに音楽三昧。指揮もするようになり、早稲田大学のオケでチェロが足りないというのを聞いてチェロも弾き、北大の寮歌「都ぞ弥生」を編曲、卒業後は音楽を教える立場になりました。

 

その後も先生のチャレンジは続き、そのたびに功績を残し、北大交響楽団OBたちは、「川越守交響楽団」をつくりたい、ということになり、それが「北海道交響楽団(道響)」になりました。

 

川越先生は交響詩、オペラ、歌謡曲もつくり、たくさんの作品を残されました。

先生の初めて作った曲「エルムの鐘」の名前を冠したオーケストラが、東京にあります。わたしが初めて「所属」したオーケストラ。

その時は自分が北海道に来るなんて思ってもみませんでしたが、札幌へ来ることになり、先生と出会い、北大にあるホンモノの「エルムの鐘」も見て、感慨深い思いになりました。

 

北大交響楽団でも指揮を続けられつつ、道響も指導・指揮され続けてきて、オペラや合唱付き交響曲のような大曲も、どんどん演奏されていきました。

 

「道響には音楽がわかっている人がたくさんいて、プロフェッショナルよりいい表情を持っていると思う」ともおっしゃっていますが、演奏会をご一緒して、わたしもそう感じています。

 

道内、主に札幌のアマチュアオーケストラには、先生のDNAを受け継いだ北大OBほか、たくさんの音楽家、演奏家がいます。

農民オケの牧野さん、千歳フィルの野村さん、アルスの吉野さん、その他たくさん、先生のもとで演奏していた人が、オーケストラの中心になっている。

今、わたしが札幌で楽しく音楽をできているのも、川越先生のおかげだと思う。

 

実際に何年も先生と一緒に過ごした人の気持ちは、またもっと全然違うだろうし、それでも、主人のこぼしたパンくずをいただく犬のような気持ちで、北海道新聞に連載されていた先生のエッセイを読み直しながら、書いてみました。

 

先生、音楽が大好きで、めいっぱい生きてくださって、ありがとうございます。