「変わり者」の考え方と処世術
みかこです。
変わり者です(あらためて言うまでもないですね)。
生活上必要なコミュニケーションが取れていて、日常動作も学力面も問題なく、少ないながらも友達はいて、いろんな職場にも適応できるんだけれど、大多数の人の行動に対しては、違和感しかありません。
おそらく向こうも感じているんだろうな、と想像はしてますが。
もう少し仲良くなれる人を増やすために、「ユーモア」を追加したら、ある程度うまくいっていますが、やっぱり違和感は残るんです。
「どうしてひどい悪口を言っていたのに、あの人と仲良くしているんだろう」
「どうしてきちんとやっていきたいと言っていたのに今のを見逃すんだろう」
「どうして会社のルールはこうなのにあの人はあんなことをするんだろう」
「どうしてそれが通用しているんだろう」
「ここに書いてあることは嘘なのだろうか」
こういうことをしばしば考え、相手の答えが底をつくまで、あるいは、相手が疲れるまで、問い質してしまうことがよくありました。今もたまにあるけどなるべくやらないようにしています。
自閉(自閉症スペクトラム障害)かな。自閉なんだろうな。
とは思うけど、診断そのものは何かを解決するものではなく、医療保険制度、社会保障にも限界があるので、診断してもらうことで受けるメリット(治療・年金・その他のサポート)が必要な人たちが受ければそれでよく、わたしは今のところその必要がないわけです。
ものごとの枠組みを認識して納得し、その場に合うように行動する。
そういうことを特に構えず、考えず、悩まず、「意識的に」学ばずに「なんとなく」できるようになるのが「定型発達」ということなんだと思います。
どんな道筋だろうが、人と比べてずいぶん遅かろうが、できるようになればそれでいいわけですが、わたしは比較的それを「なんとなく」はできてこなかった。
日本では一般的ではないとされる振る舞いでも、住んでるところが違えば、なんでもなくなっちゃったりもします。
例えば、韓国では感情表現が豊かだったり、アメリカでは自分の意見をはっきり述べたりするわけですが、そういう国で、同じ症例について同じ評価項目を使って精神評価をしても、日本で日本の医師がみるのとは、評点、診断がかわってきます。
そんなわけで、発達障害・精神障害と考えられている、診断のついている人たちも、別の国に行ったら、大部分が「ふつう」になるかもしれない。
困った症状・行動が出てくるのも「環境」がそうさせている部分もあるので、症状自体が出なくなるかもしれない。
それで、外国に住んでみたいなー、外国人の友達ってどんな感じかなー、と考えることもあります。
とはいえ、まだ日本を飛び出す決意も固まらず、準備も整っておらず、図々しくそのままの自分で住んでおりますが。細々と英語を学んでいます。本当に細々。
そういう自分の生き方・働き方として、意見の合わない大多数の人の幸せのために何かをするよりも、マイノリティの意見がプラスになる場で発信したり、比較的長けている能力を活かせる仕事をして生きていくのが、自分も周りも病まなくていいんじゃないかな、と思っています。
人とのすれ違いで腹の立つこと、悲しいことも、大多数とは意見が合わないようなので、誰かに話しても共感してもらいにくい。診断もついていないのでピアサポートというのもなんかちがう。
それで、とりあえず「ひとりで書く」ことをおぼえました。
ネット上じゃなくて、誰にも読まれる予定のないノートにね。
(よく「チラシの裏」などと言われますが、最近は裏が白紙のチラシはあまり見かけない気がしております。)
「書く」ことで「完了した」と脳が認識するので、ぐるぐると頭の中に居続けにくくなる。
そのほか
・なるべくタンパク質やビタミンを摂って、味噌や納豆やキムチなどの発酵食品で腸を整えて、気持ちを調整するホルモンの産生が滞らないようにする
・自分が世界に存在していること自体が申し訳なくなったら(笑)とりあえず外に出る、なんでもないことを人と話す
・気持ちの解決のための具体的な行動をする
・腹が立った人のことは、興奮している間は、なるべく目に入らないようにする
・腹が立ったことが小さい、少ないうちに直接、本人に、極力落ち着いて、I(アイ)メッセージ(私はこう思った)で伝える
・とりあえずひとりで泣く
・とりあえず車の中で叫ぶ
こうするのが、今のところのわたしの最善策で、オオゴトになることも少ないんじゃないかと思っています。
「自分=特殊」な環境下で、「わかってもらえない」って嘆いていてもしょうがないのでね。
「わかってもらえない」んだったら、ひとまず自分なりの、独力で落ち着ける方法を見つけるのがいいと思っています。
行動するのはまず落ち着いてからだ。
冒頭の困りごとについては、放送大学で「精神分析とユング心理学」を学んでから、聖書の創世記を読み直して、いちおう腑に落ちました。カインとアベルのくだりです。
ここには、神の「偏愛」が書いてあるようにも読めます。
アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。
アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。
主はアベルとその供え物とを顧みられた。
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、
カインは大いに憤って、顔を伏せた。
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。
もし正しい事をしていないのでしたら、
罪が門口に待ち伏せています。
それはあなたを慕い求めますが、
あなたはそれを治めなければなりません」。
(創世記4:2ー8)
カインも精一杯はたらき、神に捧げものをしたのに、神はかえりみられなかった。
弟アベルと、その捧げもののみが、神に受け入れられた。
カインは憤って、アベルを憎み、殺し、追放された。
愛は等しくは与えられない。
愛を与えられなかった者のすべきことは、自分の妬みと憎しみを治め、罪を犯す誘惑から身を避けることだ。
人は神に似せて創られた。
神はねたみ、特定の者だけを愛する方でもある。
人も等しく人を愛することはない。
そして、人は偽り、欺き、憎み、殺す。
(大抵は、「カインはアベルとちがって、収穫したものの中で特別良いものを選んで捧げなかったので、神に顧みられなかった」と説明されていると思います。)
偏った愛ばかりの世界に生きているのだと思えば、自分が「愛されている」と感じられた瞬間は、かけがえのない体験として思い起こされます。
うまくいかないことがあると、泣けてくることもたくさんあるけど、泣いてもいいから楽しく生きていくんだぜ。
きょうはとっても長くなったので、読んでくれてほんとにどうもありがとう。