フリークが「ほどほど」を知るまで
みかこです。
引っ越してから電波状況が「か細く」なってしまい、集中して書いたあと更新に失敗したり、携帯のアプリの不具合というか仕様というかで、少し戻るだけのつもりが文章全部消えるという悲劇を繰り返しており、心は折れないものの、フラストレーションを残しつつ寝落ちしてしまう日々…。
電子データというのはこういう時に「何も残らない」のが辛い。
(Googleドキュメントは「自動保存」してくれるので、電子データの弱点を克服したと言えるのかもしれません。)
きょうは別のところで書いて貼り付けることに。
さて。
わたしがコスメフリークになったのは、大学4年生のころです。
それまでは、たまたま使ってみた化粧品が合わないとか、たまたま行った美容院のパーマ液で顔が腫れるとかの繰り返しで、ずいぶん「不安」になっていて、もともと家族に容姿を貶され続けて育ったこともあり、「化粧などしてもブスはブス、無駄だ」と思っていました。
でも、「絵を描く」ことには自信があったんですね。
それで、「自分の顔も、顔をキャンバスだと思って、自分の腕で美しくすればいいのでは?」ということが、ずっと頭の中にありました。
字を書くのも、今は「書道やってます」とか言ってますが、一時期、変な癖がついて、字がものすごくヘタになっていました。
それも、「絵を描くのが上手にできるんだったら字もいけるはずだ」と思い直して、手本を見ながら地道に書いていたら、そのうち直りました。
そんな感じで顔もなんとかなると思ったんですね。
就職活動が終わった、大学4年の初夏。
「もう好きな格好をして良いのだ!」という開放感。
研究室でのストレスを何かで解消したい思い。
イケメンと評判の人とお付き合いしていたので(夫ですが)、「とにかく見た目を向上させなくては」と強迫的に思っていたのもありました。
髪もかなり明るい色にして、ふわふわのパーマのかかったショートカットにしました。
服もコムサデモードで「ゴールド様」になる程度には買っていました。
そして、「VOCE」や「ar」その他数冊の雑誌を熟読しては、「このページのメイクをやりたい!」と思うたびにそこに載っている通りのコスメを全部買っていました。
フレグランスも嗅げるものはほぼ全部嗅いで、気に入ったものを使いました。
いま振り返ると、フリークというか、依存症レベルだったんじゃないかと思います。
そんな中でわかったことは、次のようなことです。
・肌に合わない国内メーカーもあれば、海外ブランドでも大丈夫なのもある
・オーガニックや自然派ブランドでもダメなものはダメ
・どうあがいても似合わない色というのはあるし、印刷と実物はかなり違う
・香料がきついのがいろいろ混じるとめまいや吐き気がする
それから、
・そんなに必死でやらなくても愛してくれる人はいる
必死でがんばっていたわたしですが、あるとき男性の前ですっぴんにならねばならないことがありました。
「顔がだいぶ変わってしまってるから見られると恥ずかしい」と言ったら、
「素敵ですよ。何も損なわれていません」
と言われました。
どんなにコスメや服とかにお金をかけても満たされなかったわたしの心の甕の中が、素敵なもので満たされたような気持ちに。
それからは、だいぶ自然で健全な程度の自意識に向かっていった気がします。
もちろん、やりすぎ〜やらなすぎまで経験して、ちょうどいいところを見つけるスキルを身につけたのも一つ。
(コントラバスの松脂もいろんなの試したけど、「まあなんだ、ポップスでいいや」というのと同じか。)
ひととおり知っていると、必要なときにすぐ選べるので、TPOに応じて使い分けができるのはいいかな。
ほかに、「どうがんばってもゴリラにしか見えないような顔」の人を温泉で見かけたことも、美醜についての考えが変わったきっかけです。
わたしはその人を否定するとか嗤うという気持ちが起こらなかったので、自分も自分の顔で良いのではないか、と。
でも「ほどほど」を知るのにいちばん効果的なのは、飾らないままの自分を、ほかの人が客観的に見て、肯定してくれる、ということかな、と思います。
そのためには、「素の自分」を見せる勇気が、まず必要なんでしょうね。