鈍くなってもいいんじゃないか
みかこです。
ナントカ診断というのに疑問をもつ方です。
病気や障害も含めて、「診断」されたい人がたくさんいるのは何故なのでしょう。
ひとりひとり違う人間で、それぞれの人生のなかでおこるあらゆるできごとに対処するためのたったひとつの正解なんかないはずだけど、できるだけ考えることを少なくして単純化したいという気持ちなのかな。
最近流行っているHSP(Highly Sensitive Person)の本とかも、その気(け)のある人にとって福音なのかと思ったけど、だんだん、なんかちがう気がしてきた。
(チェックテストやると、わたしも当てはまりすぎるので、途中で足し算をやめた)
アンガーマネジメントとかも、「怒り」にいっそう注目して、「コントロールできない自分はダメだ」と思うタネになってたりすると、本末転倒なんじゃないかと思うことがあります。
自分は〇〇なんだ
と知り、その性質を持つ者なりに生きていく方法を考えるのは、良い策だと思います。
あの人は〇〇なんだ
と知り、思いやるのも優しさかもしれない。
でも、
自分は〇〇なんだ!
と強く思うことで、その群に見られる性質をわざわざ強化して、逆に不適応になったり、
あの人は〇〇なんだ!
と思い、避けたり嫌うようになってたらなんか嫌だな。
その人はその人という、いろんな面を持つ特別なひとりの人間なのに、診断がついた瞬間から「〇〇のうちのひとり」になるってなんか変だと思う。
わたしの敏感→鈍感話をします。
武田鉄矢が描けなくて3日休んだ話をしましたが、神経質というか、繊細というか、そういうのは聴覚でもしばしば発揮してきました。
弟が友人をたくさん家に呼んで、家に泊まることになったとき、隣の部屋で寝ているのに、ひそひそ声が「うるさい」と感じて、眠れなかったことがあります。
でも、いま住んでいるマンションでは、上の階が貸部屋(主にパーティールーム)として使われており、隣はヤミ民泊のようですが、どんなに上や隣が騒がしくても、よく眠れます。
(だいぶ下の階に住んでいたおじさんが、この騒音のせいで眠れないと言って管理人さんに訴え続けていましたが、改善されず、マンションを出て行ってしまいました。騒音トラブルというのは、もしかすると「うるさい」と思う側が過敏なこともあるんじゃないかな。)
高校時代、友人たちはビジュアル系バンドが好きで、漫画研究部の部室でよくCDをかけてましたが、私はそれ以前にはクラシックばかり聴いていたので、それらのボーカルさんたちが音痴すぎて頭がおかしくなるかと思いました。
でも、そのうち慣れました。
バンドもやるようになりました。
大学時代はクラシックギターアンサンブル部に入っていました。
ギターにかなりの熱を注いでいた頃、合奏の最初にチューニングしても全然合わない人たちが多すぎて、合ってないのに合ってることにして合奏始めちゃうので、めまいと吐き気がしていました。
でも、そのうち慣れました。
いまはピッチのあってないオケでも平気で演奏できます。
今、ヴァイオリンやってますが、始めたばかりの頃は、自分が音痴すぎて、気が狂いそうでした。
でも、そのうち慣れました。
そして、いまだに、チューニングが上手くなりません。笑
それがいいとかわるいとかはおいといて。
他人に優しく、自分もいろんなところに行けるようになってる気がしてます。
これらのことから、「適応しよう」と思う気持ちがあれば、もとが過敏な人間でも「慣れる」方向へある程度行くことができる気がしています。
そういう気持ちよりも「自分はXXだから」という方に意識が向いていると、いろんなことができなくなっていくような。
自分の特性に焦点を当てすぎなくてもいいと思います。
「あのときはそうでもなかった」という例外のような場面をなるべく思い出してみたら、少しずつ離れられるかもしれません。