違和感をたいせつに
みかこです。
2年前の今ごろ、耳の手術をしてました。
「がんになる前のやつかも」と言いつつ先生も取って検査してみないとわからないというので取りました。
がんだったらどういう治療があるの?とか周りの友人(医師)にきいてみても、専門外だからかはっきりとは答えが返ってこない。
耳鼻科医師は、耳の外側ぜんぶ取っちゃうことになると、音楽ができないわけじゃないけど集音が弱くなってしまうよ、などと説明してくれました。
検査の結果、良性と説明されましたが、いくつかの疑問は残ってもいます。
術後、仕事もほぼ休まず、直後の演奏会にも出たりしていました。打ち上げのお酒は飲めませんでしたが。
右耳がガーゼで塞がっているまま演奏しましたが、おかげで右耳でいつも自分の音を聴いていたことがわかりました。楽器から遠いほうの耳。
そんな状況でも、いろんな人の支えがあると仕事も趣味もあれこれやれるものだな、と振り返ります。
でもその当時の仕事を辞めることにしたのもその病気や手術が判定基準になったのだと思います。
それなりの病気をしたりすると、自分の残りの時間の使い方をよくよく考えたくなるものです。
それで、その仕事はずっと続ける仕事ではないと思いました。
その仕事が悪いとかではなくて。
そのあとどうするかはっきりと決まっていたわけではないけど、「これは違う」と思いました。
これまでもいろんなタイミングでそう感じることはあったけど、世間体などを優先して違和感を無視してきました。
それからは自分の「これは違う」に従うことにしています。
それを曲げたらその会社を辞めた意味がないし、大きなことしようがしまいが、人から好かれようが嫌われようが、「わたし」じゃない人生を歩くのはちがうと思ったんです。
こういうことは、「わたし」を押し込めるのが適応だと思っている派の人たちには理解されないだろうし、みんなと同じようにするのがスキル高いと思う人にはただの「できない人」に思われてるんだろうけど、それらを容れてしまうのはなんだか「みかこ」という個体に申し訳ないというか、個人は決して環境の影響を受けないものじゃないし、文化や社会あっての「わたし」ではあるものの、「わたし」の通ってきた、生まれる少し前から今に至るまでの生得的なものも含めた道というのをもうちょっとくっきりさせても良いのではないかと、わたし以上に「わたし」を大切にできる人というのはいないので、いろんな摩擦も込みで、自分の善いと思うことをしています。
「わたし」を押し込めるのが上手な人って何人もいて、そういう人たちがほめられてても、ちやほやされてても、その本人がわたしの目にはあまり幸せそうに見えないもんで、「大変そうだな」とか「かわいそうだな」とは思うけど「いいなぁ」「真似したいなぁ」とは思えない。
なので、わたしの考えもあまり、変わらないんじゃないかなと思っています。