北海道胆振東部地震から一夜明けて
<やってなくて失敗したこと=今後徹底する>
<参考になるもの>
・「東京防災」アプリ
無料ダウンロード iPhone版、アンドロイド版、US版(iPhone版)
・「地震イツモノート」
SNSに載せるのは別に自慢とかじゃないと思うぜ
みかこです。
友人は大切にするほうです。
SNSでの、友人が結婚したとか子供が生まれたとかについて「要らない情報」と言う人(たち)がいて、ちょっとびっくりしました。
自分の写真載せることについても
「よっぽど自信あるのかね〜」
など、否定的なコメント。。
わたしは友人が元気にしてるかとか、様子を知りたいとふつうに思ってるけど、そー思う人もいるのね。
逆に、友人てのはその人たちにとって、なんなんだろう………と思わなくもない。
「かわいいとかきれいとか言われたいのかね〜(呆れ)」
という感じのことも言ってたけど、
子どものかわいい時期とか女性のきれいなときとかに
かわいいとかきれいとか言われなくて、
いつ言われろっていうんだ!ってー思うぜ!
もちろん、写真載せるといろんなリスクがあるから、そこは気をつけたほうがいいとは思うけど。。。
他人のライフイベントや日々の様子を見て、一緒に幸せを感じられないんであれば、その人はSNSには向いていないのではとおもいます。
このたびの写真はこちらから。
音楽家のプロフィールには経歴より演奏について表現することばがほしい
みかこです。
先週から昨日にかけて、3つ演奏会に行きました。
ソリストへの賛辞や感想はみんなが同様のことを投げてると思うので、ちょっとそこじゃない感想を置いておこうかと。
知り合いの方のヴァイオリンリサイタルにも足を運んで、なんだかじーんと深く心に残ったのはピアノの植田克己氏の懐の深さみたいなものでした。
「共演」というのを感じました。
何かの楽器にピアノを合わせるというのは、楽器が平均律だったりする物理的に響きが合わない事情のほかに、技術的・人格的事情というか「競演」だったり「お互い知らん顔してる二人」だったりときどき「邪魔」だったりするんですけど、変な話ですけど、そういうことを客としてのわたしは一切感じなかったというのに驚いていました。(弾いてた人からするとどうだったのかはわからないけど)
クラシック音楽の宣伝資材には奏者の経歴がこれでもかとたくさん書いてあるものですが、わたし自身は本来そういうのどうでもよくて、自分の好き嫌いだけでいいと思ってるので、いろいろ書いてあっても少しも面白くないというか癇に障る演奏する人もいるし、とりあえず他人の評価はぜんぶ脇に置いてなんでも聴いています。
植田さんの演奏は、なんていうかふかふかの土の上で子どもを遊ばせてくれてるような、広い大地とか大気みたいなピアノを聴いた感じがして、この人とまた別のソリストとでまた聴いてみたいなぁと思いました。
そういう立場の人じゃないのかもしれませんけど、ソリストの魅力を最大限に引き出せる余裕を持ってるといいますか、いろんな組み合わせを聴いてきましたが、生でしっかり聴いた機会のなかでは初めてこういう感想を持ちました。
わたしは、何かの規格でどんなグレードだとしても、それに直面した自分が価値を感じなかったらそれは要らないものだと思っているので、「だってこんな経歴の人なんだから出来て当たり前、素晴らしくて当たり前じゃーん」という人はわたしといくら話しても平行線のままになるのでそういうコメントは要らないです。
そういえば、斜め前の席のおじさんが早々に気持ち良さそうに眠ってしまっていて、3つめの音が鳴っていたのも面白かったです。
聴いていて心地のよい演奏会でした。
こういうふつうの感想を持てるのも、かなりレアというか贅沢なことかもと思います。
聴き手が必死で価値を探す必要がないというか、そういう安心感がもっとクラシック音楽にあってもいいのに、と思いました。
植田氏は北海道出身で、ソリストとして北大オケやクラ管とも共演しているみたいですが、もらっていた情報からは何も伝わってこなかったので失礼していました。
経歴云々じゃなく、こういう感じの演奏する人なんだよ、と言われたら一緒に弾きにor聴きに行くかもしれないので、少なくともわたしを誘うときはそういう表現にしてほしいなぁ、と思っています。
違和感をたいせつに
みかこです。
2年前の今ごろ、耳の手術をしてました。
「がんになる前のやつかも」と言いつつ先生も取って検査してみないとわからないというので取りました。
がんだったらどういう治療があるの?とか周りの友人(医師)にきいてみても、専門外だからかはっきりとは答えが返ってこない。
耳鼻科医師は、耳の外側ぜんぶ取っちゃうことになると、音楽ができないわけじゃないけど集音が弱くなってしまうよ、などと説明してくれました。
検査の結果、良性と説明されましたが、いくつかの疑問は残ってもいます。
術後、仕事もほぼ休まず、直後の演奏会にも出たりしていました。打ち上げのお酒は飲めませんでしたが。
右耳がガーゼで塞がっているまま演奏しましたが、おかげで右耳でいつも自分の音を聴いていたことがわかりました。楽器から遠いほうの耳。
そんな状況でも、いろんな人の支えがあると仕事も趣味もあれこれやれるものだな、と振り返ります。
でもその当時の仕事を辞めることにしたのもその病気や手術が判定基準になったのだと思います。
それなりの病気をしたりすると、自分の残りの時間の使い方をよくよく考えたくなるものです。
それで、その仕事はずっと続ける仕事ではないと思いました。
その仕事が悪いとかではなくて。
そのあとどうするかはっきりと決まっていたわけではないけど、「これは違う」と思いました。
これまでもいろんなタイミングでそう感じることはあったけど、世間体などを優先して違和感を無視してきました。
それからは自分の「これは違う」に従うことにしています。
それを曲げたらその会社を辞めた意味がないし、大きなことしようがしまいが、人から好かれようが嫌われようが、「わたし」じゃない人生を歩くのはちがうと思ったんです。
こういうことは、「わたし」を押し込めるのが適応だと思っている派の人たちには理解されないだろうし、みんなと同じようにするのがスキル高いと思う人にはただの「できない人」に思われてるんだろうけど、それらを容れてしまうのはなんだか「みかこ」という個体に申し訳ないというか、個人は決して環境の影響を受けないものじゃないし、文化や社会あっての「わたし」ではあるものの、「わたし」の通ってきた、生まれる少し前から今に至るまでの生得的なものも含めた道というのをもうちょっとくっきりさせても良いのではないかと、わたし以上に「わたし」を大切にできる人というのはいないので、いろんな摩擦も込みで、自分の善いと思うことをしています。
「わたし」を押し込めるのが上手な人って何人もいて、そういう人たちがほめられてても、ちやほやされてても、その本人がわたしの目にはあまり幸せそうに見えないもんで、「大変そうだな」とか「かわいそうだな」とは思うけど「いいなぁ」「真似したいなぁ」とは思えない。
なので、わたしの考えもあまり、変わらないんじゃないかなと思っています。
安全なところで暴れようとは思わない
みかこです。
タイマー3分って言ったのに鳴らなかった気がするよ、Siri?
高校で、学校の先生への怒りと不信感で不登校になり、その怒りがおさまった頃、何があっても動じない、何に関しても赦しの心を持っているような、仏のような人間になっていた期間がありました。解脱?
そうなれていたのは、ある意味、自分の特性によるものかとも思いますが、「安全な場所にいた」ということの効果も大きく、復学して、また「社会」に呑まれると、仏はどこかへ去りました。
自分としては、いつも、いろんな人と仲良くしたいと願い、努力をしているのですが、いつもいつも、その努力をしている間に、仕返しされないのをいいことに何かやらかす人が出てきて、そういう人になめられ続けているのもなんだかなぁと思い始めるタイミングが訪れ、結局は、そういう周りの「数で勝ってる」「立場で勝ってる」っていうところで、行き過ぎているのに気付きながらもやめない「愛のない対応」の結果として、私の中の仏が旅に出るみたいです。
そういう経験が人生においてあまりにも重なると、無差別殺人とか起こすこともあるんじゃないかなぁ・・・ということが、0.0001ミリくらいは理解できなくもない気持ちです。
「発達障害と少年犯罪」を読み始めましたが、ホラーもスプラッタもアクション映画も嫌いで、血生臭い事件の詳細を知りたいと思わないタイプの私は、世の中を驚かせてしまうような事件を起こした彼らが「障害者」と診断されるような特性を持っていたという事実を、今になって知りました。
最近、新幹線内での無差別死傷事件があって、容疑者が「自閉症(ASD)」と診断を受けていたことを書いた記事が流れ、それを機に「障害者と犯罪」について、いろんな人がそれぞれの主張したいことを、事件を利用して述べているだけのような気もしなくもない状況になっていますが、私としては、結局は、誰かからの「暴力」が、また別の人に流れていってしまっている図式(障害があるのないのは関係なく)なんだなと、犯人をただの異常者として片付けてる場合じゃないんじゃないかと、思っています。別の、虐待死のこともそうかもしれないけど。
「特別変な人の行状」っていうことで片付ければ安心できる(そういう事件は極めてレアだという認識になる)ものだから、実は、環境・社会というものによって引き起こされたものであったにも関わらず、「人の特性」のせいにしてしまい、そういった「まずい」環境・社会が存在し続け、繰り返し同じような悲惨な事件が起きているんじゃないのか、という意見に、私は一票入れたいです。
私たち人間は、自分が触れている情報に偏りがあるという認識が薄く、報道の回数、事件のインパクトの強さでもって、「そういうケースが多い」と認識しがちなものだから、警察や専門家は実際のデータと同じような感覚を持っているのに対して、一般人は、「たくさん報道されているもの」が「多いもの」、「衝撃的なもの」が「多いもの」と認識しがちです。
そういう背景があるもので、「容疑者が障害者だって報道するのはやめてほしい」と主張する人たちがいるんですね。障害者が事件を起こしている割合は実際のところ多くないんですけど、報道されることによって事件が特別目立ち、障害者は危険だ、というような印象を与え、さらに知識のない方々が「そういえば自分もこんな経験がある」という余計な話をくっつけて、その印象がさも正しいかのようにネットで主張し始め、障害者に対して言葉の暴力をふるう輩が増殖するんですね。そして何も考えずそれを「そうかもなぁ」と同意する人が増してゆく。面倒くさいです。まずデータ見ろ。
アメリカの学生による銃乱射事件もなんども起きてるけど、容疑者は大抵いじめられたり疎外された経験があるそうです。なんか遣る瀬無い。
冷静な人間がそういうニュースに触れると「そうは言っても無差別だろ。やってきた奴に仕返しするならともかく、関係ない人も巻き添えにするのは違うんじゃないか?」と思うと思うんですけど、既に「それだけの事件を起こしても良い」という思考回路になってしまっているので、そういう判断はもはやできないんじゃないでしょうか。
さて、先日「発達障害と特別支援教育」というタイトルの授業を受けたんですけれども、その中に出てくるASDのかたのつぶやきが、まるで自分の心の声のようで、授業受けながら繰り返し涙が出てきたりしました。そういう(自分のことじゃないのに自分のことのように思う)あたり、私はASDとは違うんじゃないか?と思わなくもないんだけれども、ASDかどうかは置いといて、似たような「苦しみ」を味わってきてるわけです。
その似たような苦しみっていうのは、これまで出会った人たちには、私のことを「いじめる人」と、「援助したい人」といて、それらは、真逆のようでいて、実際のところ、私にとっては「同類」だ、ということです。
どういう意味で同類なのかというと、どちらも「私の気持ち」を置き去りにして、自分のやりたいことをやり、気が済んでどこかへ行く、ということをしているという意味で以って、同類なんです。むしろ後者の方がタチが悪いんじゃないでしょうか。
こちらはそれ(的外れな援助、というか、的外れな時点で、援助じゃなくて攻撃)によってもうじゅうぶん傷ついているのに、「人の善意、好意を無碍にするもんじゃない」「人と人としての付き合いを大切にしろ」「人の絆が大切だろ」とかいう、妙な他人からの圧力があったりで、こちらがそれ(さらなる攻撃)に抵抗を示そうものなら、「人の気持ちがわからないお前がおかしい」とかいう話になる。そんな輩こそ、こっちの気持ち微塵もわかってないよな?脳みそ空っぽなんじゃねえの?ばか嫌い。と心の中で叫びつつ、諦めてもいる。
もうそんな輩はね、要らないんですよ。そういう輩が、実際のところ何もわからないくせに、トラウマだか、育ちの悪さだか、メサイアコンプレックスみたいなのがあるんだか知らないが、フクシとかイリョウとかキョウイクに居たりして、「支援」のつもりでなんかもう、めちゃくちゃなことをする。それで、当事者のことわかんない同じような輩たちに「大変さアピール」「自分の意識高いアピール」をして、同じような輩たちから「フクシやイリョウやキョウイクという聖域でガンバッテル」っていう部分でちやほやされて勘違いしてたりして、もうそういう輩全員
はい、自分の気持ちが入ってきちゃって若干言葉がえげつなくなりすみません。
で以って、「分かり合えない」ことについて「自分の読解力や文章能力がなくて」とかなんかスキルのせいにする人に対して、今の私の心の中には「それじゃあしょうがないね」と言える仏がいないです。「だったら出直してこい」しか言えないです。
ハードも違えば、スタンスも違うから、コミュニケーション不全が起きる。
本当に、努力でどうにかなる部分の読解力とか文章能力が問題なら、どうにかしてから来ればいいですよね?
スキル云々じゃなくて、スタンスを変えることが必要なんじゃないでしょうか。
もし相手が自分と同類ではないのだとしたら、「自分には到底この人の頭や心の中はわからないのだけれども、それでもカケラでもいいから教えて欲しい」というスタンスになれば、自分の発する言葉も変わるだろうし、相手だってひどく抵抗を示したりしないと思うのです。
同類であれば、そんな問題はほぼ起こらない。寡ない言葉でも、十分お互いに理解できる。そういうことがあります。
そして、明らかに自分の手に負えないタイプの人とは関わらないのが鉄則だと思うのです。
いくら経験積みたくても、いくら人を助けたい思いがあっても、自分がほぼどうしようもない相手について、自分の力量ではどうにもできないことがわかっているのにそれでも関わろうとするのって、一体誰のためなんだろうか?自分のためでしかないんじゃないか?その先には何が待っているかって、お互いにボロボロになるっていう最悪のことなんじゃないか?と私は思っています。
過去に自己愛性パーソナリティ障害と思しき人を好きになってしまったことがあって、ラブラブの頃はまだしも、別れに向かう局面では暴言を吐かれまくったりもしたけれども、それも、私が手に負えないのに、相手の傷に触ってしまったからなんじゃないかと思います。
自分もぼろぼろになったけれども、諸々学んだ今は、なんとなくその彼の状況が理解できなくもない。彼らはただひたすら自分を守りたいだけだったんだけれども、その表現がモラハラだったというだけのこと。
知らなかったとは言え、傷だらけになって癒されないまままだそこにあり、誰にも触れられたくないような部分、というのに踏み込んでしまった、こちらがいけないのじゃないだろうか。そして今の時点ではまだ彼らに適切に対応できるほどの実力も知識もない気がしています。
人が暴れる背景には、その人にとっての、窮地というか、危機的状況がそこにあるんだと思います。それは小さな子どもでも大人でも。
そんなときには、その暴れた人の気持ちを、こちらから何も押し付けずに、とにかく聴いてみるしかないんじゃないでしょうか。そして落ち着いたときに、もしまだ話す余地があるのだったら、理解したことを伝えてみて、それが合っていたら、そこでようやく対等になるわけで、話はそれからだ、ということなんじゃないでしょうか。
今日は施設の子どもが久々に「抵抗を示し」、気持ちを聴き取るのにとても時間がかかりましたが、最後には、その子なりに整理ができて、自分自身の適切でない行動についても謝ることができました。やっと安全だと思ってくれたんだなぁ、というところで、疲れはしましたが、こちらも少しほっとしたところがあります。
そもそものところ、その人にできない課題を与えておいて、できないことを責めるのはおかしいっていうことがあり、そういうことの積み重ねで以って、攻撃性が高まってしまうのであれば、暴れた人を責める前に、自分たちが何かおかしいことをしていなかったか、振り返ってみたりしてもいいんじゃないでしょうか。
安心・安全を感じられる環境・社会がもしそこにあったなら、件の如し凶行は、行われなかったのではないでしょうか。
痛い話が嫌いな人は読まないでね
みかこです。
足の怪我のこと。
数日前、重たい本をたくさんと、MacBookを入れていたリュックを誤って素足の足先に落としてしまい(夜23時過ぎ、このへんが「マヌケ」と言われる所以)打撲箇所全体が痺れる感じで爪の色が変わってしまったので、これはわりとやばいのかも?というのが始まりでした。
とにかくふつうには歩けなかったし、痛みに鈍いほうのわたしも「いたいいたい」と声に出してしまうくらい痛かったので、夜間診療に電話して、指示されたところへ掛け、また指示されたところへ掛け、としていたら、最終的には救急に。
救急の人には「ドアの鍵開けといてください」と言われたので、マンションの下まで降りますと言ったら「悪化したらいけないので歩かないでください」と言われ、救急車で運ばれて行った病院でレントゲン撮ったけど骨には異常がなかったので、鎮痛剤だけで様子を見ることになりました。
数日経ち、爪がだんだん浮いてきて、回りの皮膚も黒ずんでるのと、痛み方が変わってきたので、悪くなってたら困るなぁと。
で、本日、皮膚科行ってみたのですが、化膿はしてなさそうとのことと、爪の血を抜いたら楽になりそうだけど、その皮膚科には爪に穴をあける器具がなかったので、周りの皮膚を注射針で二箇所ほど刺して溜まっている液を抜くことに。
抜いてみた部分は楽になりました。
ほかのところが痛いからなのか、針を刺しても全く痛くなかったんですよね。
こうすればいいのか、というのがわかったので皮膚のほかのところが腫れてきたら、自分で針を刺してみて、どうしても爪が気になるときはスポーツクリニックに行くかな。
スポーツクリニックとかだと、走ってる人などによくあるケガなので、爪に穴を開ける器具もあるそうです。
ただ、そういう血豆のときは今回みたいな打撲と違ってそこまで痛みはないらしいです。
皮膚科で診てくれたのは女医さんで、声が小さめだけど聴き取りやすくてわたしは好きな感じの先生でした。
駅直結のビルにある皮膚科で、土曜日なのに適度な混み具合。
あまり待たされずに済みました。
会いたかった人に会えるのもミラクル
みかこです。
きのうは施設のプログラムで「これまでの人生で起こったミラクルBest10」を書いてもらう時間がありました。
自分のミラクルもあれこれ思い出してみましたが、やっぱり「会いたいなぁと思っていた人に五分後に偶然出会った」と「リクナビアンケートの懸賞で1名にパソコンが当たるというのが当たった」が同立首位というところでしょうか。
きょうも人に偶然会いました。
ケガしてるからかとっても眠くて眠くてですね。
ボケーとしてたらシンフォニエッタのお父さんに偶然会いました。
いつもシンフォニエッタにはそれなりにちゃんとした顔で行ってるのですが、きょうは仕事帰りにコスメカウンターで遊んで目元だけ京劇みたいに派手になったのに、他は直しておらず、その後ちくわ天に心を奪われて立ち食いそばを食べ、汗をかいて口紅もファンデも落ち、まぶた以外はほぼすっぴん、という世にも奇妙な顔になって、まあもう帰るだけだし、とすっかり油断したところで出会ってしまいました。
お父さんとはいえ、娘もふつうにきれいにしてる方がいいと思うので、まあ、今後は気を抜かないようにしようと思います。
数ヶ月会ってなかったので「元気は元気なんだろ?」と確認されました。
足のケガの話をしたら「それは聞くだけで痛いな」と言われ。
痛いです。
お父さん、後期高齢者なのに階段一段飛ばしでどんどん登るもんで、ケガした足でついていくの大変でした。
帰宅後、眠気がピークになって気がついたら寝てたのですが、起きてからもうとうとし続けて、足の親指の血豆処置についてネットで学んだくらいです。
寝たからといってあまり宵っ張りも何なので、コスメカウンターでもらったクレンジングオイルだけ試して寝よう。
最近のオイルクレンジングはダブル洗顔不要な上に肌が乾かない処方になってるんだな。ミラクル。
わたくし、手はいとも簡単に荒れるのに顔は荒れないのですよね。
面の皮が厚いということでしょうか。
あしたの朝はコントラバスの練習、午後は仕事、夜はヴァイオリンのレッスン。